燃える胸と涸れる喉と、どうしようもない劣情
010:哀しいって、どんなものだった
ぐったりと投げ出す指先を見つめる。部屋を出て行く気配がする。ハーノインも軋む体をおして起こす。寝台代わりにされた長椅子の汚れを確かめてから脱ぎ散らかった制服をかき集める。皮膚がじっとりと湿っている気がする。密やかに蠢くのは傷を刺激したくないからだ。重心を大きく動かす度に違和感が突き抜けた。軋む背骨と筋肉に大きく息を吐く。情交の痕跡を拭ったのを確認してから部屋を出る。半ば倉庫として使われているそこにいつからか長椅子が持ち込まれてたまり場になっている。不健全な発展場は密やかに息づいて上官や女性の嗅覚から逃げ続ける。ハーノインは内側から施錠を解き、そのまま外へ出た。使われていない部屋なので自動施錠の設備がないし、下手に鍵をかけて誰か閉じ込められても判らないので放置されている。ばたんと閉じる扉の音だけが妙に重かった。
シャワーを浴びたかった。のろのろと歩くハーノインが顔を上げる。通路にもたれて立っているのはイクスアインだ。高度な戦闘技術を叩き込む基盤を選りすぐるための殺し合いに勝ち残った相棒。ハーノインと同じ年で出身機関も同じ。現在の所属も同じくして同じ上官へ仕える。目の覚める蒼い髪をして長めに伸ばした前髪は口元へ届きそうで、ときおり鬱陶しそうに払ったり耳に引っ掛けたりしている。毛先へゆくほど癖がつくようで強く内側へ巻いている。耳へかける癖がついていて目立たないが細い毛質だ。猫っ毛っていうんだっけ。紺紫の眼差しは冷たい銀縁の眼鏡の奥だ。眼鏡もフレームが目立たないから時折その煌めきに惑う。
気心が知れている分、タイミングが悪かった。事の後に会いたくなかったな。イクスアインはハーノインの扱いにも長けている。どんな言い方が気に障るかや逆上せさせることさえ易いはずだ。イクスアインを相手に据えてハーノインにも同じことが言えるはずで、この状況は確実に悪かった。イクスアインの顔が、ハーノインが踵を返す前に上げられて逃げ道が消えた。襟まできちんと留めているのに裸を見せているかのように覚束ない。思わず肩をすくめて後退るとイクスアインはそれだけで顔をしかめた。
「今日は随分長丁場だったな?」
「…下衆」
言い捨ててすれ違おうとするのをイクスアインは執拗に追いついてくる。今週に入ってから何人目だ? 数えてないから知らない。思わず応えてからじろりとイクスアインを睨めば得たりと口元が緩んでいる。認めたな。用心深くなって返事をしない。イクスアインは前に後ろにとちょろちょろする。ハーノインは面倒臭がって自然と道を選ぶ。袋小路に突き当たって初めてイクスアインの誘導に気づいた。岐路へ立つたびにイクスアインはさり気なく体を滑り込ませて面倒がったハーノインの行き先を決めていた。
「なんなんだよ」
「お前と話がしたかった」
悪びれない。ハーノインは会話を打ち切りたくてイクスアインを押しのけた。行為でつなげた体が軋む。イクスアインは優位に立つ笑みでハーノインを見下ろす。
「いいのか?」
「なにが」
「『今日』は長丁場だと言ったろう」
瞬間、ハーノインの体が総毛立つ。いちいち区切って強調する真意に慄えた。用心深く睨みつけるのをイクスアインはせせら笑う。鈍いぞ。最初に言ってあるのに。不意に近づく鼻先に怯んだ。イクスアインは鼻梁の形も良い。体を動かすより策略を巡らせる気位が現れていて神経質に繊細だ。肌もハーノインより白いし肌理細かい。爪先がかすっただけで出血しそうな脆さがある。
獣のように喉を鳴らして唸るハーノインの鼻先をイクスアインの指がかすめた。桜色の爪は手入れがされていて逆剥けや割れもない。山吹の髪を梳くかと思えばこめかみ辺りから栗色に変わる後れ毛を撫でる。お前の髪は面白いな。二色だ。ハーノインの髪は癖が強すぎて伸ばしたりしない。適当な長さで短くしてしまうし、うなじを隠す栗色の髪だって制服の赤い襟が隠れるほど伸ばしたこともない。
「今日の相手はしつこかったな?」
小型ナイフがハーノインの手の内で踊り、切っ先が飛び出す。ぶんと振るわれる腕をイクスアインは目を閉じて避けると体を倒す傾斜の勢いでハーノインの足を払った。攻撃に重心が傾いていたハーノインはあっさり体勢を崩すとそのまま跳んだ。思わず跳んだが着地場所を目測すらしなかった。なんとか体勢を保ちながらその肩や背中を壁に思い切り打ち付けた。肺から押し出される空気に咽る。ハーノインの忍びナイフはイクスアインの手の内だ。刃先を確かめてイクスアインは鼻を鳴らした。薬の塗布がないな。ハーノは人が好い。あっさりと打ち捨てられたそれはハーノインの反対方向へ滑り転がる。
逃げようがないと悟った瞬間に膝が折れた。がくがくと笑うそれが自分のものであるとは信じられないくらいだ。壁にすがりつかせた背中や肩甲骨がずるる、と滑る。座り込んでしまうハーノインは体の奥底の痛みに熱い息を吐く。今日の相手は執拗でハーノインも体力を削られた。しかも行為の受け身は程度にかかわらず膨大な熱量を必要とする。腕さえ折れそうでハーノインは熱い息を吐いた。イクスアインは屈みこむとハーノインの頤を掴んで上向かせる。
「何故お前はこんなことを繰り返す」
ハーノインが男を相手に脚を開くのは初めてではない。求められれば同衾する。イクスアインの紫が紺へ変わるのを眺めながらハーノインは嗤った。
「カイン『様』のご命令だったらどうすんの?」
群青の双眸が集束した。見開かれる深い紫はすでに夜闇のように暗く濁った。白い肌さえもが呼吸を忘れて紙のように白くなっていく。ただ冴え冴えとした蒼い髪だけが変わらない。
エルエルフや皇子サマには無理だろ。クーフィアなど論外だ。年少すぎる。結局、鳴り物入りの戦闘力を保持しつつ相手の油断を誘える立場にいるのはハーノインだ。戦闘力はエルエルフやアードライのほうが上だろう。クーフィアの年少さは却って警戒を呼ぶ。それなりのプライドがあって、なおかつ戦闘力が上を行く者がいるハーノインには忸怩たる思いが期待されていて、そこにつけ込む隙ができる。
「――なーんて、な」
カイン『様』の作戦がこんな穴だらけでお座なりなわけはないだろ? うそぶくハーノインさえもが嘘か真実かを濁してしまう。イクスアインは衝撃と困惑に呆然としている。なぁどいてよ。俺はシャワーを浴びて眠りたいんだよ。
本当、なのか? 躊躇うイクスアインにハーノインは嘲笑う。エルエルフや皇子サマには無理だろ? ハーノインはあえて返答をぼかす。命令は直接受けるとは限らないし。黙認だって方向の一部ではあるのだ。否定しないならそれは肯定だろ? 頤に触れているイクスアインの手が震えている。なんだか可哀想だな。ハーノインはそれでもあっさり手を払う。暇なら手を貸してくンない?
「…本当に、カイン様が」
「さぁね、どうだろ」
イクスアインの手がハーノインを引き起こす。歩き出してもイクスアインは離れない。なぁ付き添いはいらないんだけど。
「……オレもする」
「は?」
「オレの体も好きにすればいい」
ハーノインは手加減なしの平手をイクスアインに食わせた。眼鏡が飛んで冷たくて軽い音を立てる。磨かれた通路を滑った。
「…――ふざけるな」
「ふざけているのはお前だろう、ハーノ」
紺紫の裸眼はメガネを無くして焦点が合わない。それでも傷ついた双眸は硝子の護りをなくして潤んだ。オレがなんとも思わないと思っているのか。イクスアインの暗い目が燃える。
「お前が体を許す相手がいるなんて、許せると思うのか?」
カイン様の命であるならオレがカイン様に掛け合う。お前よりは信頼されているだろうしな。そのまま歩き出しそうなイクスアインの手首を掴んだ。イクス、お前おかしいぜ。おかしいのはお前だ。
「――オレは! オレはお前にこんなにも軽んじられているなど知らずに…ッ――」
潤みきった蒼い目が落涙した。眼鏡の硝子がないからその頬を滑る涙が見える。お前にはうまい飯を食わせてやりたいしふかふかの枕で眠らせてやりたい。全部オレのひとりよがりだ。…本当に、オレのひとりよがりだったんだ。
イクスアインは上官であるカインをこれ以上ない尊敬と羨望と憧憬で見つめる。イクスアインはハーノインを愛しむように優しく抱くし二人共好意を感じているはずだった。それらがイクスアインを引き裂いているに違いなかった。それでもハーノインは意地悪くじらす。カインの命令じゃないと言ってしまえば一番穏やかに事は収まる。カインへの尊敬もハーノインへの慕情も損なわれない。ハーノインはそれが嫌だった。ハーノインはカインをそこまで信頼していない。自分が赦せない人を想うことが出来ない。分かち合えない隔たりが明確にそこへ溝を掘っていた。共有したい分かち合いたいと思うのにどうしてもその一線だけが超えられない。
「カインは…俺は大佐を」
ぎゅう、と襟や胸のあたりへイクスアインが爪を立てる。傷つけるというよりしがみつくに近いそれは明確に畝を掘って溝を作りながらズルズルと落ちていく。イクスアインは嫌がるように頭を振った。はらはらと散る涙が玉のきらめきでその薔薇色の頬を滑っていく。ふせられた睫毛さえもが群青で蠱惑的だ。叩いた頬が赤く腫れている。
「言うな。言うな。お前に、カイン様がそんなことを。カイン、さま、が」
嗚咽にかき消される言葉は喉のあたりでグルグルという唸り声になる。イクスアインは二つの裏切りにその身を灼いているのだとハーノインは知っている。枕を交わす関係のハーノインが他の男に脚を開く裏切りと。尊敬するカインがそれを命じていると一瞬でも疑ってしまったことと。思慕と尊敬と崇拝と恋情と。どこへ転がってもイクスアインは裏切られる。
ハーノインは襟を開き留め具を外す。なぁイクス。やろうか。ベルトのバックルを揺するとイクスアインの涙にまみれた目がハーノインを見た。俺のことを慰めてよ。素性も知らない野郎に犯されてるんだぜ? 慰めてよ。
「…――ハー、ノ…」
「どうせ俺の体なんか」
嘘にまみれてもう見えない
名前も知らない男に抱かれて。男が撫でる不快な指先だけがハーノインの外観を形取る。俺はもう俺の領域さえわからない。どこまでが俺で、俺はどんな形をしているのか、とか。
「…ハーノ、そんな、…――そんな哀しい、事を、」
哀しいことを言うな。潤んだ瑠璃は蠱惑的できれいなのだと思った。イクスアインの目はまるで瑠璃を嵌めたように綺麗で、それでもその目は玉ではなく瞳なのだ。感情で潤み揺れて瞬く。碧玉の双眸は冷ややかにイクスアインを見下ろす。なぁイクス。イクスの好きな俺ってどんななの。何を、言う。別に。イクスが好きな俺はどんな形をしているんだろうって思っただけだよ。
俺はもう俺の形なんか見えやしないんだから
イクスアインは声を上げて泣いた。ハーノインはその声に抱かれているかのようにうっとりと目を眇めた。
《了》